鴻渡園と加賀棒茶 

藩政期から明治へ。

藩政期、鴻渡園は当時の今江村に多くの茶畑を耕作する農家でしたが、明治維新を機に茶商へと転じ金沢に店舗を構えています。今江村で摘採した茶葉は、製茶工場にあった室と呼ばれる乾燥室で火入れされ、一旦300キロは入ろうかという大きおよな茶箱に保管されました。
その後、「選り子」と呼ばれる農家のご婦人方が机の上に荒茶を広げて茶の茎と葉を選り分る、根気のいる地道な作業をしていました。選り分けた葉の部分は室のすぐわきにあった船着場から今江潟を通じて金沢へと運ばれ、多くの皆さまに楽しんでいただいてました。一方、茎は売れないので肥しとして畑にまかれていたそうです。

加賀棒茶を生産・販売。

金沢で加賀棒茶が販売されるようになると、これまで肥料にしかならなかったお茶の茎に商品価値が出てきます。茶畑からでる茶葉の選別にも力が入るというものです。鴻渡園では近郊の茶畑から産出する茶葉の茎を大いに集め、ほうじ茶の材料として、あるいは自家焙煎したほうじ茶を金沢へ出荷しました。また、お茶の茎の商品化により選り子さんの収入も増加。緑茶自体の品質も向上するなどの副次的な効果もあり地域の茶業の振興に大きな効果があったということです。