歴史 

加賀棒茶の誕生。

加賀棒茶は明治35年に金沢市で生まれました。当時緑茶は絹糸に次ぐ重要な輸出品で良い品は不足しがちでした。特に金沢は人口も多くお茶が求められていたため、余剰品の「出物」である茶の茎に目をつけ、活用をはじめました。

その年の一番茶の茎は「雁が音」や「白折」と呼ばれ独特の風味から重宝されますが、二番茶の茎は味が薄く飲用には向かないとされていました。ところがこの味気ない茎が焙煎されることで独特の芳香を生み出したことから、加賀棒茶はたいへん人気になり加賀地方一円に広く普及していきました。

戦後の加賀棒茶。

終戦後、国内の食糧事情から世の中は嗜好品より、まずはカロリーの確保が最優先課題となりました。加賀3湖に囲まれた丘陵地帯の茶畑は国道整備などのため土砂を採取され次々と住宅地や工業用地に変貌。地域の水運の要であった今江潟・柴山潟は干拓され大規模な水田となりました。全国でも指折りの産地であった茶畑はほぼ消失します。しかし一方で静岡・鹿児島など産地では茶葉の生産が飛躍的に拡大。加賀棒茶の原材料となるお茶の茎が良質かつ安定的に供給されることとなりました。

やがて高度経済成長期を迎えると量販店を通じて普段使い向けのより安価なお茶への需要が高まります。番茶棒を使った棒茶が、県外のメーカーでも作られ多く流通することになりました。一方で金沢市内を中心に嗜好性の高いお客様からはより味わい深い香りの良い加賀棒茶への要望が高まります。こうして従来ほうじ茶の材料としては考えられていなかった一番茶の茎を焙煎する上級品の製造がはじまりました。こうした嗜好性の高い加賀棒茶は、地元の茶業に関わる人々が長年にわたり培ってきた強いこだわりの焙煎手法により今日まで続いているものです。

戦後の加賀棒茶
加賀棒茶は当初、地元だけのものでしたが、県外への移住者の方や観光客の方々により徐々に評判となり、大手百貨店などで販売が開始されると全国的に高い評価をいただくこととなりました。さらに北陸新幹線の金沢延伸を機に加賀棒茶への注目はさらに高いものとなっています。令和の新元号の制定にあたっては石川県を代表する産物として大嘗祭の庭積の机代物に選定されるという栄誉にあずかりました。